「とおりすぎてもいいんですか」
なんというアヴァンギャルドな店名でしょう。店の看板が問い掛けてくるという斬新なスタイルはもとより、いたずらに人を不安にさせるような良いお湯加減の物言い。
心に響くのを通り過ぎて心臓に響くレベル。
これまでの人生の大事な局面・チャンスにことごとく気づかずに、通り過ぎ"過ぎ"て、香ばしい38歳に成り果てた自分にとっては耳をつんざくような言葉だ。
というのも、野球に例えるならば、僕の人生の打撃成績はほとんどが"見逃し三振"だったからである。逆イチロー。ノーヒットノーラン。
「石橋を叩いても渡らない、むしろ引き返す」を、喜んで座右の銘にしていたTHE・チキンを地で行く僕のような人間には、本当に打つべき球がわからない。
ストレートど真ん中!のような打ちごろの球が放り込まれても、「どうせ直前でカーブするんじゃないのか?」とか、「急にホームベースに穴が開いて球が吸い込まれて消えるんちゃうの?」と訝しがってしまう。
それでいて、結局は土壇場になって焦っちゃうので、最終的に難球・悪球を引っ掛けては、ボテボテで出来たてアツアツのゴロを量産するわけです。
確かに、物事を進めていく上で試行錯誤は大切。
ただ、僕の場合は考えすぎて失敗する「思考錯誤」。
英語に置き換えると、トライアル&エラー。
僕の場合は、トライセズ&相手のエラー頼み。
そうは言ってみたものの、そんな自分の人生もそろそろ折り返し地点。イニングで言うと5回表あたり。
感触的に3万アウトぐらいは軽く積み重ねて来たけど、やはり心のどこか奥底では、タイムリーヒットやホームランだってたまには打ちたいわけで。
だから、それがたとえ打率0割0分1厘であっても、人はその僅かな可能性に賭けるはず。その僅かな可能性の追求の積み重ねで、世界の文明や科学も発達して豊かになってきたわけだから。
そして、野球では、「三振!アウト!バッター交代!」が当たり前だとしても、己の人生のプレイヤーにおいては究極的には自分一人だけ。そこには代打も代走もいない。
ラインナップも、1番オレ、2番わたし、3番わい、4番おいどん、5番拙者、6番まろ、7番小職、8番あちき、9番わらわ。どこまで行っても全部自分。
つまるところ、当たり前の話ではあるが、「自分の人生は自分に責任がある、自分が面倒を見なければいけない」ということだ。なので監督もワテ。
だからこそ、能力や出自の差はあれども、誰しもがドラフト1位で指名されてこの世界に生まれてきたわけだから、簡単に諦めてはいけない。
長い人生、時には不条理な審判のジャッジがあったり、ダイナミックな乱闘や愉快な観客たちの闖入もあるだろうが、それでも諦めてはいけない。
グリーンウェルのように7試合で帰国するなんてもってのほか。ガルベスみたいに突然キレて審判団に剛速球を投げちゃうハードボイルドさもダメ。
逆転満塁サヨナラホームランもありうるこの世界、人生という名の銀幕では、9回の裏・スリーアウトになるまでは、決して諦めてはいけないのです!諦めたらそこで試合終了ですよ!って、あ、これはパクリになっちゃいましたね。やっぱりスリーアウト!!
そんなアホな妄想に血道を上げながらゴリゴリ歩いていたら、うっかりお客さんの会社を通り過ぎてしまっていたことに気づく。
同行してくれてた会社の子に呆れながら、
「もーう、通り過ぎてますよ~、しっかりしてくださいよ!」
と言われてしまった。
親身なご忠言ありがとう。
でもそんな言葉も、しっかりと僕の右耳から左耳へと通り過ぎていきました。